愚痴・憎まれ口・無駄口・世迷言・独断と偏見・屁理屈・その他言いたい放題



その1.≪「演歌」は「日本人の心」だろうか



く、「演歌は日本人の心の故郷だ」とか、「演歌は日本人の魂だ」
なんて言われてるけど、実は僕は「演歌」が苦手です。といっても、
決して「演歌」を否定している訳じゃありません。「演歌」の中にも
何度聞いても聞き飽きない程素晴らしい曲が沢山あって、実際に僕も
振り付けて教えているものもあります。でもそれは決して「演歌」だ
からではなく、歌詞もメロディも編曲も、そして歌唱テクニックも非
常に完成度の高い、「名曲」と呼ぶに相応しい作品だからです。たま
にお弟子さんから頼まれて、あまり気乗りしない曲を振り付けること
もありますし、折角作ったのだから「演歌」の好きな人達には一通り
教えますけど、結局それっきりになってしまう場合が殆どです。 


演歌」といえば、多分川上音二郎の「オッペケペ節」あたりが始ま
りなんだろうけど、あれは当時の世相を痛烈に風刺したプロテクトソ
ングだった訳で、今の「演歌」の「義理人情」や「耐え忍ぶ」の世界
とは、全く違いますよね。誤解を恐れずに言えば、あれはどう見ても
薩長連合あたりの、バンカラな武士達が好みそうな唄のように思えま
す。薩長連合の下級武士たちが明治維新に果たした役割は高く評価す
るとしても、明治新政府の「文化政策」のお粗末さだけは許し難いと
思います。
なぜなら、その当時の政府の、日本の伝統的な文化や芸術
に対する評価が、西暦2000年になっても、まだ一般社会に影を落
としているからです。だってこの現代社会においてさえも、「歌舞音
曲は女子供や花柳界の人間がやるもので、折角大学を出た男子が一生
の仕事として選ぶには相応しくない」という考え方の人、結構沢山い
るんですから本当にあきれてしまいます。話が横道に逸れました。本
題の「演歌」に戻りましょう。                


日の「演歌」の基礎を築いた大御所達が、それぞれ「浪曲」と「民
謡」の出身である事からも、それらが「演歌」のルーツであることは
ほぼ間違いないでしょう。(それに、これは僕の勝手な想像ですが、
「朝鮮の伝統歌謡」の影響も、かなり受けているのではないでしょう
か。以前、韓国の旅芸人の映画を見た時、その切々とした血を吐くよ
うな歌声に、言葉は解らなくても、思わず泣いてしまいました。その
時、「アッ、これはまるで、演歌だ!」と思った覚えがあります。)
「浪曲」にも「民謡」にも、泣けちゃう位素晴らしい曲が沢山あって
それらが「日本人の心の一部分」だと言う事は否定しませんが、「日
本人の心」と言える音楽のジャンルは、もっと他にもあるんじゃない
でしょうか。                        


本は、江戸時代の300年の泰平の中で、諸外国に比べても勝ると
も劣らない、独自のハイレベルな文化を築き上げてきました。その頂
点にある音楽が、たとえば「長唄」や「清元」だと思います。これら
は充分に洗練された、極めて完成度の高い「日本人の心の粋」とでも
言うべき音楽なのですが、残念ながら現在ではマイナーな存在になり
つつあります。「長唄」「清元」のみならず、「浪曲」「民謡」など
も含めて、日本の伝統音楽が、日常生活からだんだん遠いものになっ
てしまっているのは、実に残念で悲しい事です。カラオケなどで、一
見まだまだ盛んに見える「演歌」でさえ、若い人達の心は急激に離れ
ていってるようです。                    


てここで、大胆な仮説をたててみたいと思います。「演歌」のルー
ツが「浪曲」や「民謡」なら、「長唄」や「清元」をルーツに持つよ
うな、現代の音楽は何でしょうか。僕の独断と偏見によれば、それは
一時「ニュー・ミュージック」と呼ばれた、ユーミン・山下達郎・さ
だまさし・谷村新司・小田和正・チャゲ&飛鳥などの音楽ではないで
しょうか。それらの曲に共通する事は、(1)歌詞が日本語として洗
練されており、美しいこと。(2)メロディ・ラインが繊細かつ豊か
で、オーケストレーションも隅々まで神経の行き届いた、心地よい音
色を備えていること。(3)声も伸びやかで、国際的にも高く評価さ
れる歌唱力があること。(4)洋楽のテクニックを用いているにもか
かわらず、日本人独特の細やかな情感に溢れていること、などです。
モダンで、都会的なセンスに溢れていて、程よいアンニュイも感じら
れて・・・、殆んどの点で「長唄」や「清元」と非常に共通している
と思いませんか?                      


論「ニュー・ミュージック」系の音楽が、直接「長唄」や「清元」
の影響を受けているとは思いません。しかし、伝統を受け継ぐと言う
事が、昔のものをそのまま守りつづける事ではなく、その「精神」や
「真髄」だけは硬く守りながらも、ちょうど古い酒を新しい皮袋に移
し変えるように、常に解体と再構築を繰り返していく事だとするなら
ば、「ニュー・ミュージック」の中に「長唄」や「清元」の心が生き
ているという僕の考えも、あながち捨てたものではないと思うのです
が・・・。無理なこじ付けだと思いますか?          


近、松たか子さんのアルバムを聞いていて、「この人は、日本舞踊
で踊る事を前提にした曲を作ってるんじゃないだろうか?」と思いま
した。将来もしも不幸にして、「純邦楽」が絶滅しても、この手の曲
がある限り、日本舞踊は続けられそうな感じです。彼女の出身が出身
だけに、そんな風に勘ぐってしまいました。今度、彼女の曲を数曲ま
とめて振り付けてみようかと思っています。          



「僕の独り言」TOPへ

次ページへ